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姉との練習④

久しぶりになるが、

姉とカウンセリング風の対話を続けていたことを書きたいと思う。

昨年夏からおおむね、1〜2週間に1回のペースで電話で話していた。

姉の病気による体の痛みは一進一退。

治ることのない難病で、痛みも朝から夜まで続く。

そんな姉が精神的に追い込まれて

万が一ことがあってはいけないとの危機感を私が持ち

定期的に電話で話すことを提案してのことだった。

今日話してくれたのは最近の心境。

結局この1年、病気も治らないし、痛みも同じように続いているが

自分自身が変わったのではないかということだった。

なかなか確定診断が難しい病気ゆえ、

診断がついたのは、痛み出して1年以上も経ってのことだった。

それがちょうど去年の今頃。

診断がついた時、これで病気が治ると期待し

入院した時もこれでよくなると期待し

実家に長期帰省した時もこの環境で良くなると期待し

鍼治療、健康食品、ヨガ、瞑想・・・

そのようなものに対しても良くなることを期待した。

それでも、それらの効果は一時的なものであり、

治ることはおろか、改善に向かうこともなかった。

痛みには波があり、強い時には気が狂いそうになるほどだった。

痛みで頭がいっぱいの毎日では

よけいなことにエネルギーを使うことができなくなった。

よけいなこと、とは姉に言わせれば大して大切ではないもの。

誰がどんなことをしている、とか、何を言われるとか

家事の度を超えたこだわりとか

趣味以上の手間暇かけた小物作りとか。

これまで、あれもこれも気になっていたものが

痛みによって、どんどんどうでもよくなっていき、

大切なものだけを大事にできればいいというスタンスになった。

大切なものとは、自分が気分良く過ごせるための家事や

家族との何気ない時間である。

姉が続ける。

痛みは無いにこしたことはないが、

どうやら無くなることはないらしいとわかった。

そのうち、痛みを自分の一部とし

人生の伴走者として一緒に歩んでいくもの、と

考えられるようになっていった。

それは、期待が何度も何度も打ち砕かれ、

やっぱり治るものではないと実感したことから思うようになった境地のようだ。

痛みを無くしたい。そんな思いになるのは当然のことだ。

だけど、自分から排除しようとどんなに試みても一向に無くなることはない。

絶望するような気持ちにもなる。

当初は、痛みがあるとそれだけで自分の気持ちも余裕がなくなり、

身動きが取れなかった。

しかし、この頃は、痛みは同じでも自分の感じ方が変わっている。

痛みがありながらも、できることを少しでもやれるようになった。

それは自分自身が痛みより大きくなったからだと思うと話してくれた。

私は深く頷きながら、

あまりの痛みに自暴自棄になって死んでしまおうかと思うのを

踏みとどめていたのは何かをたずねた。

すると

これで自分を失くしてしまうのはもったいない

という思いとのことだった。

小さな子どもがいるから、

子供のために死ねないと思うのが普通かもしれないけど、

生きるのは本当のところは自分のため。

こんな病気で自分の人生をなくしてしまうのはもったいない。

そんな思いで踏みとどまっていたとのこと。

誰かのために生きる、というのは依存であって

自分のために生きるという選択をしないと

自分の人生を生きていくことができないと、姉が言った。

何もかも、その通り。

決して歓迎できるはずのない病気や

痛みという辛くて不快なもの。

だけど、姉自身がそれらの困難よりも器が大きくなって

それらと共に生きていこうとする境地にいつの間にかなっていた。

人生においては

無くならない障害、消え去ることのない傷。

体にも、心にも、どうにもならないものがついてしまうことがある。

自分の意思とは関係なく。

私自身、現実面においてネガティブに心が疼く時、

過去にできた心の傷を再認識し、なんとか癒やし切ることができないかと

そこに囚われてばかりいた。

だが、その傷も自分の一部であり、人生を共にする伴走者。

そう思える人間になることが、もしかしたら

本当に目指す境地なのではないかと考えさせられた。

病気になり、弱った姉を助けたい。

そんな思いから始めたこのカウンセリング練習会だったが

姉の数々の言葉に感動するとともに

私の方が姉に助けられ、学ばせてもらっていたことに気づいた。

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自分への寄り添い

”相手に寄り添う力を育む”という

副タイトルをつけていますが、

同時並行で”自分に寄り添う力を育む”こともしなくては

相手に寄り添うことは出来にくくなります。

ただ、それもなかなか大変なことで

どうしたら自分に寄り添うことができやすくなるか

試行錯誤の連続です。

現実面でネガティブな思いが湧いてくるのは

もとを正すと過去の心の傷に紐付いており、

その過去の心の傷の癒やしが、今の私の関心テーマです。

私自身、過去の心の傷の癒やしは

できたという実感が持てないことが多いのですが

少しこんなフレーズと、こんなポーズだと

傷に触れられるかなと感じました。

それは「愛しい子よ」という言葉で始めて

過去の幼い自分に語りかける感じです。

過去の自分に向けて

神様目線で話しかけるのです。

なぜなら、神様は、誰のことも愛しい我が子のように思うと思うからです。

大人のワタシはそこまでの人物でなくても

大人のワタシを超えた目線で幼い自分に愛ある言葉をかけてあげるのです。

そんな時、胸に手を当てるといいことを、

どこかのユーチューバーさんからも教えてもらいました。

こんな風に私の言葉は続きます。

「愛しい子よ、あなたは何も悪くなかったよ。

 ただ、お母さんと一緒にいたかった。

 ただ、お母さんの笑顔がみたかった。

 それだけだったんだよね。

 お母さんがなぜ不機嫌でいるのかわからないとき

 ただただ不安で、怖かったんだよね。

 あなたは、何も悪くなかったんだよ。

 あなたは、喜んでいたかった。愛を感じていたかった。

 それが、感じにくかった。

 どうしたらそれが感じられるんだろう。

 あなたは、幼い頭で試行錯誤して

 お母さんが笑顔になれる方法を見つけた。

 それは本当の自分を葬るやり方だった。

 それでも、お母さんが笑顔で機嫌がいい時だけ

 あなたは安心していられた。

 安心がほしかったから、自分自身を失ってしまった。

 そうしてまでも

 お母さんの笑顔と愛を感じたかった。

 愛しい子、あなたは何も悪くない。

 むしろ、とても純真だったんだよ」