誰かの話しを聞かせてもらうとき、カウンセリングのスキルや知識はどの程度必要なのだろうか。
スキルや知識の有無が影響するのだろうか。
特にさまざまな悩みや気持ちを聞いてほしいと願っている人が、話せてよかった、聞いてもらえた、わかってくれた。
そんな心境になるのに、聞き手はカウンセラーの資格がある必要はない。
知識やスキルなどなくても、一心に自分の言葉に耳を傾け、頷いてくれるだけで、随分と人は話しやすくなり、話せた満足感を得ることができる。
だが、聞き手が途中で余計な口を挟んだり、自分の経験談を話したり、アドバイスしようとしたり、そんな状況になると、いつしか話し手は思いがしぼんでしまったり、見失ってしまうこともある。
だからこそ、誠実に、話している相手の言葉に耳を傾けるという「姿勢」が何よりも必要なのだが、その姿勢を持って相手を聞かせてもらう場面は、日常にどのくらいあるのだろうか。
多くの場合、相手の何かしらの悩みや気持ちなどを聞くと、無意識に「わかるよ、私も○○でね」「相手は○○って思ってるんじゃない?」「じゃあこうしたらどう?」と応じてしまう。
そんなやり取りが、親子でも友達でも同僚との間でも日常ほとんどだ。
だからこれが当たり前と思ってしまう。
実際、そのようなやり取りで気が済んでしまうことも多い。
それで済むのならいいのだ。
話したかった人が話せて、聞いてもらえた感じがして、すっきりして、安心を覚えたり、元気が出たりするなら、それでいい。
だが、それで済まない場合もある。
聞いてほしいだけなのに、要らないアドバイス、聞き手の体験談などが返って来て、話したい気持ちが失せてしまう。
あるいは聞いているようで聞いてないような上の空の返事に、寂しいような、虚しいような、空回りする気持ちになる。
いつもではないにせよ、そんな時だって往々にしてある。
話したのに、わかってもらえなかった。
話したいことが、何だか話せなかった。
燃えカスがくすぶってしまうような、行き場のない気持ちになる時がある。
話し手が求めていたことは、聞いてもらえている実感、わかってもらえている実感、もっというと「自分が大切にされた」と思える感覚だ。
相手がそんな気持ちになるには、先程述べたような「姿勢」で聞かせてもらうしかない。
それでも「自分が大切にされた」と話し手が感じるかは相手次第だ。
しかし、それでもその一見簡単なような、話し手への姿勢が
誰でも自然に、当たり前としてできるのか、
というと、それがなかなか出来難い。
理由は上記のように、日常は当たり前のように相手の話すことに反応した自分の意見や思いを伝える、というやり取りだからだ。
要は、話し手が二人揃う形になり、伝え合っているようなものだ。
そこに、カウンセリング学習を続けるという意味がある。
カウンセリング学習の中身に知識やスキルの学びも含まれてはいるが、究極には相手を大切にできる姿勢を養うことにある。
そして、その姿勢を持てるためには「自分が大切になる」ことが必要であり、この条件なくして相手を大切にすることはなかなかできない。
とても大切な、人間としてのありようを学ぶことなのである。